沿革と歴史

History

明治38年「小川石鹸製造所」の創業

明治38年3月、マックスは大阪市に「小川石鹸製造所」としてその産声を上げました。 創業者の小川竹治郎は愛知県生まれで、京都にあった福井石鹸に入社して、工場長を経て37歳で独立しました。地域社会への奉仕にも熱心で、日本赤十字社や保育施設などへの寄付を積極的に行いました。

創業当時は約1,000平方メートルの敷地に500平方メートルの工場と居宅を建設し、独自製法による洗濯石鹸を製造。10年後の大正5年には化粧石鹸の製造にも乗り出し、今日の基盤ができあがりました。

創業者 小川竹次郎

東南アジア、中南米への輸出

当時の業界では、第一次世界大戦による原料の入手難から石鹸原料の研究が進み、コスト競争では諸外国より優位にありました。弊社は、中国をはじめ東南アジア、インド、アフリカ、中南米に至るまで、化粧石鹸生産量の80%を輸出して事業を拡大。化粧石鹸第1号である高級香水石けんの「白蘭花」(主に中国に輸出)は大ヒット商品となり、そのほか「雪の肌」「月輪」「宝冠」など(いずれも臼社ブランド)を販売。

第一次世界大戦終結後は、石鹸原料の暴落に伴い石鹸の価格も暴落。さらに金融恐慌は業界にも深刻な打撃となりましたが、弊社では自社ブランドの開発や輸出などを強化しました。

全てが戦火に…

大正15年、後に第二代社長となる松葉佐小蔵が入社。小川石鹸製造所では技術部員兼営業部員として勤務するかたわら、夜学に通い、旧制中学の検定試験に合格。回転式(火力)の生地乾燥機を発明するなど活躍の場を広げていきました(佐小蔵は後年、養子縁組により小川姓を名乗ることに)。 
昭和16年、時局は第二次世界大戦に突入しました。戦局の激化により原料が入手困難となり、石鹸の生産は極度に減少。昭和20年3月には大阪空襲により工場・事業所が全焼。一時期営業を中断せざるを得なくなりました。 同年1月、創業者小川竹治郎は和泉市の疎開地で77歳の生涯を閉じました。

昭和22年 工場再建

昭和22年10月、亡父の遺志を継いだ小川佐小蔵が焼け跡を整備し、石鹸工場を再建。「株式会社小川石鹸製造所」を設立して代表取締役に就任しました。事務所と660平方メートルの工場、化粧石鹸1ラインと洗濯石鹸1ラインの設備での再スタートでした。

終戦後しばらくは石鹸の配給制が続き、粗悪で高価なヤミ石鹸が出回っていました。佐小蔵は在阪の浴用石鹸メーカー数社と協力して政府に働きかけ、白由販売できる「マル証石鹸」を勝ちとりました。

昭和25年には石鹸の配給規制、価格統制が撤廃されたことにより「マル証石鹸」も廃止。翌年には在阪の石鹸メーカー32社で大阪府石鹸工業協同組合を結成。昭和30年代に入ると経済も復興し、消費文化が盛んになったことで石鹸業界も宣伝の時代に突入。大手と中小企業の格差が広がる中、弊社では他の中小メーカーと差異化を図っていきました。

昭和32年11月 新工場・新社屋

本社と工場を八尾市(現在地)へ移転。
825平方メートルもの新工場には、ボイラー室、
鹸化釜三基、クーリングローラー、
自動乾燥機を完備。
また、全国的な販路開拓に乗り出し、
量販店市場の開拓は、
石鹸メーカーの中で弊社が先駆けとなりました。
昭和33年には販売拡大のため東京都練馬区に
東京営業所を開設。翌年には台湾と技術提携、
昭和46年には韓国・東山油脂に技術指導におもむき、
海外進出も意欲的に取り組みました。

人と企業の品性を高めて

昭和40年代から50年代にかけて、ドルショック、オイルショック、天然油脂原料の暴騰などの試練が続いたものの、迅速な対応でピンチを回避。また、昭和51年には「株式会社マックス」に社名を改め、昭和57年には本社社屋を新設し、充実した研究設備を完備。高品質石験の生産を可能にする高度な品質管理体制が完成しました。

昭和62年 自社クリエイティブオフィス

昭和60年、創業80周年を区切りに社長に就任した小川寛は、3名の女性スタッフを起用した企画・デザイン室を設置。女性の視点で自分が良いと思うもの、買いたいと思うものを追求した商品は次々にヒット。石鹸を単なる消耗品として捉えない、ライフスタイル提案型石鹸のパイオニアとなりました。

昭和62年、大阪市内にクリエイティブオフィスを設立。伝統を越える「若い力」と「グローバルな視野」で付加価値のある新たな商品開発を目指して、その思想のもと、販売促進、商品企画開発、パッケージデザイン、展示会のスペースデザインを展開しました。

研究開発室が創る新時代の商品

自社内に研究施設を設け、新たな素材や技術開発も強化。通常の3倍の鉄骨を組み込んだ超精密計量てんびん室をはじめ、当時の最先端設備の数々を整えました。

本施設での研究成果は、数々の特許を申請する製品を生みだし、100年以上を経た今でも続くヒット商品となっています。

平成9年 液体石鹸工場竣工

平成9年、小川裕吉が四代目社長として就任。
また、生産コストの削減、製品開発、製造の展望を見すえて、新工場を奈良県橿原市に竣工しました。
ボディソープやシャンプー、リンスなどを生産する液体製品専用工場で、1日に1万2千本以上の生産を実現。
和風アロマ入浴剤の「あろまじゃばん」「ドラえもんソープ」「ドラえもん入浴剤」など、時代に合わせた製品を続々提案しました。

平成13年 新設備の導入

平成13年には本社内の石鹸製造施設を一新し、従来の4ラインから6ラインに増設。大量から小ロットまであらゆるニーズに対応可能に。
奈良工場には入浴剤部門を移転し、本社大阪工場は石鹸生産のみ行い、より効率的な生産体制を実現させました。

マックスの新商品開発

平成初期より、マックスは和風化粧石鹸「湯化粧小町」や「スティックソープ」を開発。これまでにない斬新さが当時の市場を賑わせました。
以来、百貨店、専門店のギフトルートを次々に開発。市場は中元・歳暮のギフト需要からパーソナルギフト需要へと向かう中、試行錯誤の末の新しい取り組みや商品を生み出し、その成果は明確な数字として現れました。

「豊泡石けん・温故知新シリーズ」の誕生

「安ければ、粗悪品でもいい」時代は去り、真に質の良いものでないと生き残れない。 マックスはそんな時代のニーズに応える「豊泡石けん・温故知新シリーズ」を販売。従来品より豊かな泡立ちを追求し、日本古来の食物を配合。肌にやさしい石鹸をアピールし注目を浴びました。

また、ギフト用新商品として世界的な絵本のライセンスブランド「パーティウィズミッフィー」を販売。若い女性を意識し、あめ玉をイメージした包装のミニソープが好評を博しました。

年表

1905年(明治38年)
小川石鹸製造所を創業
1945年(昭和20年)
第2次世界大戦、大阪空襲により、社屋・工場が全焼
1947年(昭和22年)
株式会社小川石鹸製造所を設立
1957年(昭和32年)
本社、及び工場を現在の八尾市へ移転
1958年(昭和33年)
東京営業所を開設
1976年(昭和51年)
株式会社マックスに社名変更
1991年(平成03年)
奈良県橿原市に商品管理物流センターを開設
1997年(平成09年)
奈良工場を新設
2019年(平成31年)
創業115周年